
2026年10月7日、ノーベル化学賞は、東京理科大学名誉教授の硤合憲三(そあい・けんそう)氏と、フランスのアンリ・カガン氏に授与されることが決まりました[1]。
受賞理由は「不斉有機合成における非線形効果と自己触媒作用の発見」。ニュースで目にしても、どんな研究なのか、すぐにはイメージしにくいのではないでしょうか。
実は、この研究を知る入口は自分の右手と左手です。分子にも、両手のようによく似ているのに、重ね合わせられない組があります。そして、その小さな違いが薬の働きや生命の成り立ちにも関わっています。

分子の「右手と左手」ってどういうこと?

私たちの暮らしや体と、どうつながるの?
分子の「右手と左手」の違いを身近なたとえから説明し、硤合氏・カガン氏の研究のすごさと、私たちの生活との関わりを化学初心者にもわかりやすく解説します。
難しい反応式を覚える必要はありません。まずは、両手を見比べるところから始めてみましょう。
分子にも「右手」と「左手」がある?

両手を、手のひらを上にして並べてみてください。指の数は同じですが、親指の位置は反対です。右手の形を鏡に映すと左手の形になりますが、立体として回してもぴったり重なりません。
このように、鏡に映した形と重ね合わせられない性質を「キラリティー」といいます。分子にも、この性質を持つものがあります。
互いに鏡像の関係にあり、重ね合わせられない2つの分子を「鏡像異性体」と呼びます。
キラリティー|鏡の形と重なりますか?
手を裏返して見た形ではなく、手全体を立体として比べます。図は形を理解するための模式図です。
鏡像異性体|分子にも「鏡映しのペア」
Cは炭素、A・B・D・Eは互いに異なる原子や原子の集まりです。太い線は手前、破線は奥を表す立体配置の模式図で、特定の物質を描いたものではありません。
この記事では、イメージしやすいように「右手型」「左手型」と呼びます。すべての分子にこの2種類があるわけではありません。
形が違うと、体の中での働きも変わることがある
右手用の手袋に左手を入れると、うまく合いません。体内のタンパク質と分子の組み合わせでも、それに似たことが起こります。
体内の相手との立体的な相性を、部品にたとえた模式図です。実際の分子構造や薬の効き方を示すものではありません。
鏡像異性体の違いで、期待する作用や好ましくない作用が異なる場合があります。そこで、目的に合う側の分子を優先的に作る技術が必要になります。これが「不斉合成」です。
カガン氏と硤合氏は、何を発見した?

カガン氏:小さな偏りが、予想以上に大きな偏りに
化学反応を進みやすくする「手助け役」が、触媒(しょくばい)です。触媒にも右手型と左手型がある場合があり、その違いを利用して、どちらの型の分子を多く作るかを調整します。
触媒に含まれる2つの型の割合から、できる分子の割合も単純に予想できそうに思えます。ところがカガン氏らは1986年、触媒側の偏りと、できる分子の偏りが単純な比例関係にならない現象を報告しました[1・3]。
この現象を「非線形効果」と呼びます。たとえば、一方の型の生成物が、比例関係から予想されるよりも多く得られる場合があります。「少しの差が、大きな差になることもある」と考えると、イメージしやすくなります。
非線形効果|少しの差が、大きな差になることも
ここでは、右手型と左手型の割合に差があることを「偏り」と呼びます。図は、触媒側の小さな偏りが、生成物側で大きな偏りにつながる場合を表しています。
60:40や90:10は説明用の仮の比率で、実験値ではありません。図では、片方の型だけの触媒を使うと対応する片方の型の生成物だけが得られる、理想化した場合を想定しています。一般に「比例する」ことと「同じ比率になる」ことは別です。非線形効果には、比例関係から予想されるより偏りが小さくなる場合もあります。
硤合氏:できた分子が、同じ型の分子を作る手助けに
硤合氏が見つけた反応では、できあがった分子が、次の反応の手助け役にもなります。たとえば右手型の分子が、材料から新しい右手型を作る反応を助けます。これが「不斉自己触媒反応」です。
不斉自己触媒反応|できた分子が、次の反応を手助け
長い名前は、3つに分けると読みやすくなります。
分子が自分だけで分裂する図ではありません。材料を使う反応の流れを簡略化しています。実際の硤合反応では、生成するアルコールに由来する亜鉛アルコキシドの集合体が触媒として働きます。一般に、自己触媒反応なら必ず偏りが増幅されるというわけではありません。
工場でできあがった製品が、次々に製造スタッフとして加わるとしたらどうでしょう。製品が増えるほど、次の製品づくりを助けるスタッフも増える。そのような仕組みを、分子の反応として実現したのです。
なぜすごい?「数」だけでなく「割合」が変わる

「分子の数が増える」ことと、「片方の割合が高くなる」ことは別です。たとえば、右手型と左手型がそれぞれ2倍になっても、混ざり具合は変わりません。
硤合反応では、適切な条件で反応を繰り返すと、初めに少し多かった側が、全体のより大きな割合を占めるようになります。小さな偏りが育つことを「増幅」と呼びます。
棒の長さは総量ではなく、それぞれの型の割合を表します。数値・比率は説明用の例で、実験データではありません。
硤合氏らは1995年に、この増幅を示す論文を発表しました[2]。その後の研究では、ごく小さな差から、ほぼ一方の型にそろうところまで偏りを大きくできることも示されています。
小さな差が自ら増幅される仕組みを、実際の化学反応で示したこと。分子の形を選ぶ化学に、新しい理解をもたらしました。
私たちの生活とは、どうつながる?

薬づくり:必要な形を選ぶと、私たちにどんなメリットがある?
多くの薬は、体の中のタンパク質などに分子が結び付くことで働きます。たとえば、体内の相手を「鍵穴」、薬の分子を「鍵」と考えてみてください。鍵の形が合えば働きかけやすく、形が違うと同じようには働けないことがあります。
鏡像異性体は、原子の種類・数と結び付き方が同じでも、立体的な形が違います。
そのため、一方は目的の作用が強く、もう一方は弱い場合があります。また、別の作用や好ましくない作用を示す場合もあります。

そこで薬づくりでは、それぞれの形の働きを調べ、治療の目的に合う形を選び、目的の分子の量や、鏡像異性体の割合をきちんと管理します。必要な形を優先して作る不斉合成は、そのための大切な技術です。
私たちにとってのメリットは、期待する薬の働きを引き出し、不要な作用を減らせる可能性があることです。ただし、片方の形を選べば必ずよい薬になるわけではありません。両方を使うことが適切な薬もあり、効果と安全性は薬ごとに確かめます。
カガン氏や硤合氏の研究は、こうした「分子の形を選ぶ化学」の仕組みを理解する基礎につながっています。
生命の起源:「片方に偏っている」とは、どういうこと?
私たちの体のタンパク質は、アミノ酸という小さな分子がつながってできています。鏡像の区別があるアミノ酸にはL型とD型がありますが、体のタンパク質を作るときには、基本的にL型が使われます。鏡像の区別がないグリシンは例外です。
ここでいう「偏り」は、体の右側や左側のことではありません。L型とD型のうち、片方の形が圧倒的に多く使われていることです。形がそろっていることは、タンパク質が決まった立体的な形を作り、働くことにも関わっています。

生命の材料は、いつ、どのように片方の形へ偏ったのでしょうか?特に片方を選ぶ仕組みがなければ、両方の形が同じくらいできそうです。初めに一方がほんの少し多かったとしても、それだけでは現在の大きな偏りを説明しにくいのです。
そこで研究者は、小さな偏りを、大きな偏りへ育てる仕組みを探しています。不斉自己触媒反応は、適切な条件の化学反応で「少し多い側の割合が、さらに高くなる」ことを実際に示しました。
今回の研究は、「最初の小さな違いが、どうやって生命の材料の大きな偏りにつながり得るのか」を考える手掛かりになります。ただし、原始地球で硤合反応そのものが起きたことを示したわけではありません。
身近な製品にも「異性体」の名前が使われている

「同じ原子でも、並び方が違う」という異性体の考え方は、薬だけでなく、工業用の溶剤にも登場します。ここでは、洗浄剤の成分として使われることもある1,2-ジクロロエチレンを例に見てみましょう。
ここからは、鏡像異性体とは別の種類である「幾何異性体」の例を見てみましょう。この「trans(トランス)」も、分子の形を区別する名前です。1,2-ジクロロエチレンでは、炭素同士の二重結合をはさんで、2つの塩素が同じ側にあるとシス型、反対側にあるとトランス型と呼びます。この2つは「幾何異性体」の組で、互いに鏡像の関係ではありません。
同じ部品を使った模型でも、取り付ける位置が違えば形が変わります。1,2-ジクロロエチレンも、炭素2個・水素2個・塩素2個という材料と、原子のつながり方は同じです。違うのは2つの塩素の位置関係。炭素同士の二重結合は自由に回転できないため、模型をくるっと回すだけではシス型とトランス型を入れ替えられません。
シスとトランス|塩素は同じ側?反対側?
C=炭素、H=水素、Cl=塩素。中央の2本線が二重結合です。点線は位置を見比べるための補助線で、原子の結合ではありません。
同じ材料でも、性質が違うことがある
並び方が違うと、物質の性質にも違いが生まれます。たとえば、通常の大気圧での沸点はシス型が約60℃、トランス型が約49℃。同じ種類・数の原子からできていても、液体が沸騰する温度まで変わるのです[10]。
日本の有機則では区別せず、EPAでは異性体ごとに評価
日本の有機溶剤中毒予防規則(有機則)では、シス型・トランス型を区別せず、「1,2-ジクロルエチレン」を第一種有機溶剤に分類しています[6・7]。
一方、EPA(米国環境保護庁)のIRISという化学物質の健康影響評価データベースでは、シス型とトランス型を別々の物質として掲載し、それぞれの健康影響を評価しています[4・5]。
たとえば、2010年の評価で設定された、長期間の経口摂取に関する参照用量(RfD)は、シス型が0.002 mg/kg体重/日、トランス型が0.02 mg/kg体重/日です。参照用量は、生涯にわたって毎日取り込んでも重大な健康影響が生じるおそれが小さいと推定される量の目安です。
つまり、日本の有機則では同じ区分に入る異性体でも、EPAの健康影響評価では個別に扱われ、異なる評価値が設定されています。ただし、有機則の分類とIRISの評価は目的が異なります。また、参照用量の根拠となる試験や健康影響も同一ではないため、数値だけで毒性全般の強弱を単純に比較することはできません。
米国の洗浄剤メーカーも、当社もトランス型を採用
トランス型の1,2-ジクロロエチレンは、米国の複数の洗浄剤メーカーで洗浄成分として採用されています。たとえば、MicroCareは自社の洗浄剤「SuprClean™」にトランス型を配合していることを紹介しています[11]。Chemoursの工業用洗浄剤「Opteon™ SF79」にもトランス型が配合され、油・グリースの除去や精密洗浄などの用途が挙げられています[8]。
当社にも、トランス型を採用した製品があります。「eクリーン21HFE-401」は、trans-1,2-ジクロロエチレンとHFE系溶剤を主成分とする洗浄剤です。脱脂洗浄やフラックス洗浄、蒸気槽付き洗浄装置での洗浄などにご利用いただけます[9]。
製品名や成分名に付いている「trans」は、こうした分子の並び方を区別する名前です。普段使う洗浄剤の成分表示にも、今回紹介した「異性体」の考え方が登場しています。
脱脂・フラックス洗浄などに。洗浄対象や設備に合う使い方をご相談ください。
主成分: trans-1,2-ジクロロエチレンとHFE系溶剤
沸点: 約47℃
よくある疑問

Q. この反応で、どんな薬でも作れるの?
万能の薬の製造法ではありません。不斉合成という分野全体が薬づくりに役立つことと、硤合反応そのものが直接使われることは、分けて考える必要があります。
Q. 生命の起源が、すべて解明されたの?
まだです。「小さな偏りが化学反応で育つ」という具体的な仕組みを示しましたが、原始地球で同じ反応が起きた証明や、生命誕生の全体の解明を意味するものではありません。
まとめ:右手と左手から、大きな問いへ
- 1鏡映しの分子は、体の中での働きが違う場合がある。
- 2わずかな偏りでも、反応によって大きく増幅されることがある。
- 3その発見は、薬づくりの基礎や生命の起源の研究につながる。
自分の右手と左手を見比べるだけでも、分子の世界を知る入口になります。
今回のニュースを、化学を身近に感じるきっかけにしていただければうれしく思います。
参考資料・出典(確認日:2026年10月14日)
- [1]ノーベル賞公式:2026年ノーベル化学賞の発表
- [2]Soai ほか(1995):不斉自己触媒反応と不斉の増幅を報告した原著論文
- [3]非線形効果の定義と解釈に関する研究論文(2017)
- [4]EPA IRIS:cis-1,2-ジクロロエチレンの評価(2010)
- [5]EPA IRIS:trans-1,2-ジクロロエチレンの評価(2010)
- [6]厚生労働省:有機溶剤中毒予防規則 第1条
- [7]厚生労働省:労働安全衛生法施行令 別表第6の2
- [8]Chemours:Opteon™ SF79 技術資料
- [9]カネコ化学:eクリーン21HFE-401 製品情報
- [10]EPA:シス型・トランス型の毒性評価資料(物性を含む、2010)
- [11]MicroCare:SuprClean™へのトランス型の配合例(配合情報のみを参照)

